体験談Ⅲ心霊の世界
FILE №286【九死に一生】 
【元旦の護摩祈願を繫ぎ合せですがYoutubeにアップしてございます】こちら>>>


良く聞く言葉ですが
ご自身に九死に一生と思える体験はありますか?

誰にも危なかったな~と思える経験の二つ三つはあるものですが
命を救われたと思える出来事までは・・・となるかもしれません。

実は私何度もあります
まず間違いなく死んでいただろうと思われる出来事も多々ございますが
それらの出来事に関して例外なく事前にその映像を頭の中で見ていました。
ですので周りが大騒ぎになる中で妙に冷静に受け止めていたようです。

事故もそう
屋上からぶら下がっていたときもそう
車が向かって来た祭、川に飛び込む周囲の中で動かずにいたこともそう
川で飲まれたときもそう
トラックに自転車ごと巻き込まれたときもそう

まだまあありますがどれほど助けていただいていることか・・・
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頂いたメールです


本日は、お忙しい中時間を頂きありがとうございました。私は、自分を見失っていました。暴走する私を諭し、たしなめて下さる方を私は待っていたのかもしれません。先生とお会いし、私はどこに向かい、何をするべきか気付きました。私が人の為と行っていた事は、結局は自分の欲の為だったと気付かせて頂きました。今の流れを作ったのは私です。この結果を招いたのも私です。
私が変わらなければ新しい流れなど生まれはしない。『変わりたい』と心から思いました。
私は、いい子を演じる癖があります。
長年、自分を守る為の術でした。一発で見破られましたけれど。
今回、嫌われても怒られても、恐ろしい念がビュンビュン飛んで来ても、
私にとって何が大切かを考えて、流れが滞っているものは一度止め。私が今すべき事、一つの事に注いでいた流れを、ご先祖様の感謝の気持ちと、私を頼ってくれた3人の子供に温かい気持ちを伝える事に注ぎたいのです。
私の身勝手な行動に傷つけてしまった方に対してのお詫びは続けます。
ネガティブに襲われそうだったので、頭を無にしてご本尊様、ご先祖様に感謝の気持ちで手を合わせました。その時、感じた事です。行く事が試練という捉え方もあります。
逆に先生とお会いし決意した私の気持ちが本物かを試されているような気がしました。
今度は、しばらく本当に離れます。その間、心の器を広げて生まれ変わりたいと思います。
最後に先生は言って下さいました。私が、これからやろうとしている事は
(レベルは全く違いますが)先生と同じだと。その言葉で本気で自分を変えたいと思ったのです。
もう、人の目は気にしません。私は私の道を行きます。本当にありがとうございました
私は私なりの供養をさせて頂きたいと思います。今は、ただ感謝です。傷つけてしまった方に素直にごめんなさいと手を合わせ続けたいです。
どんな邪気に頭の中が襲われても、無心で手を合わせ、仏様やご先祖様に感謝の気持ちに変えると、一瞬で邪気は消え、温かい何かに包まれる気がします。
今までの生活を見直して、規則正しい生活を送ろうと思います。
いつも見守って頂いているのですものね。
慌てず習慣になるように一つ一つ改善していきますね。
仕事中心の生活で大切な事を忘れていました。気付かせて頂き感謝です。

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嫌がらせをしている人がいたとします
都合が悪くなるように仕向けたり困らせたり嘘で違う流れにもって行こうとしたりなど。

困らぬようにかげながら見守る人がいたとします
そうならぬよう自分で気がつき注意を怠らず、迷うことの無いように遠まわしにそれとなくそちらへ意識を向けてあげるなど。


さて一つの不祥事が起こったとき、どちらに意識を向けているかがその後の流れを作ります。
嫌がらせした相手を探したり不祥事を導いた人への憎悪が先に来るとそこが基点となりそこからスタートとなります。
不祥事により被った被害が、心の憎しみや憎悪で加速され、それ以上の被害意識が生まれやすくなります。
するとバランスで言うマイナスはそのまま突き進みますが、対極である本来しなければならない部分、感じなければいけないはずの心は完全に消失してしまいます。

この時の心はある意味「魔」と等しいといえます。

困らぬよう計らってくれている方のおかげで、不祥事は不運でも最悪の手前で止まっていることが見えなくなっていることが、日常の中では多々あるはずなのです。


この「おかげさま」に目を向ける習慣を持っている方がどれだけいるでしょう。
私は三十半ばまで一切気が付きませんでした。
その為に、当たり前と口では言っていながら、実はまったくしていないマイナスの積み重ねのなかで生きていたのです。



困らぬように働きかけてくださっている方への感謝の念。


これはこちらの世界でも、あちらの世界でも
心を向けるということでは同じなのです。

同じはずなのに片側だけでしている事があまりに多すぎてしまい
しているつもりで今を片付けていくと、年とともにしわ寄せが効かなくなり
いずれしわの溜まりに足をとられます。
例えば厄の頃とは、その寄場に差し掛かる頃でもあります。
祈願やお祓いの意味の一つに、心の整理も含まれるのです。


一つの出来事には必ず両面が存在します
真言を唱えている方も沢山いらっしゃいます。

なぜ真言を唱えるのですか?と私は必ず聞きます。
ご先祖さまのため
人の幸せのため
家族のため
彼や友人や知人のため
答えはさまざまです。

正しいや間違いはございません^^)
ただひとつだけ思う事があります

真言を唱えるならば、途中で止めないでください。
口にする以上、継続は当たり前です。
すでに得ていることへの感謝をさせていただく事が先なのです。

それをせずに成就へはながれにくいものです。

大変でも繰り返し繰り返し継続してみると
大変に思わなくなってきます。
そしてそれはと気とともに普通となり
いずれしないほうが違和感、と変わります。


自分では当たり前にしている事でも、
それが継続から得ている流れの場合
人はそれをすごいことと感じます。

ところが本人は、このままじゃいけないとすら思っているもので
それは心のステップアップへの準備が整っている事なのです。

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さて、ここから先は本当は書くつもりはありませんでしたが
少しばかり私のつながる先を明かしますね・・・

先の話の流れに心が入ると
どこまでもどこまでも上昇していきます。
その心で目を閉じると、その瞬間にそちらの高い次元と一瞬で触れる事が可能で
そのつながりでの瞑想は、深い部分に入り込みます。
ここから先の話は、なかなか受け入れられない部分のお話となってしまいますので
今の段階ではあまりかたりたくありませんが・・・・

例えば一つお話すると・・・・  これは経験していることですが
自らの肉体を一度構成しなおすことも可能となります。
ある次元に光の世界がありますが、無限の粒子の光が流れを作っております
その中を通過するだけでもすごい浄化になりますが
その流れは時間や距離の概念のなかにおりません。
どこにでも通じており、実は私たちの目の前にもあちこちに存在しております。
日常の中で私はその粒子を頻繁に見ておりますが
この光は直接何かに干渉は一切しません。
しかしあるエネルギーや思考に導かれるように現れることがあります。
この応援をいただけるようになると、存在そのものがよき流れを引っ張る人になります。

このくらいで止めてきます、おかしな人と思われますから(笑
ですが、実際にそれらは存在します。
そしてそれはそのまま霊と同じでもあるのです。
ただ、霊にも様々な現れ方がありますので
それだけと言っている訳ではありませんよ^^)



そしてね^^)
実は九死に一生を得る人って
この光が身近にいる方が多いのです


あるとき崖から転がり転落した子がいました。
あまりの勢いに誰も身動きできない状態でしたが
怪我ひとつなくけろりとしている有様。

その子には光が現れていたのは言うまでもありません。





合掌  浄霊師 神島千尋